桐山-第七話 挫折の瞬間
六月中旬、梅雨の長雨が宮崎を包み込んでいた。曇天が続く日々の中、涼介の心にも徐々に陰りが差し始めていた。
社内報に掲載された「街の物語を売る」という記事は好評で、いくつかの支店からも問い合わせがあった。最初の頃は順風満帆に思えた。写真を活かした資料は社内で「桐山メソッド」と呼ばれるようになり、同僚たちからも一目置かれる存在になりつつあった。
しかし、順調だったのは一時的なことだった。
「桐山さん、お電話ありがとうございます。ですが…申し訳ありません、やはり別の物件に決めました」
電話の向こうの小林さんの声に、涼介は深く息を吐いた。彼女は先週、涼介が丹念に準備した目黒の物件を内見し、かなり前向きな反応を示していた。朝の日差しが差し込むキッチン、近所の落ち着いたカフェ、静かな住宅街の様子—それらを写真と共に伝え、小林さんも「ここなら暮らせそう」と言ってくれたのに。
「そうですか…他にどんな物件に決められたのか、もし差し支えなければ…」
「実は、友人の紹介で、個人オーナーの物件に出会って。条件はそれほど良くないのですが、なんとなく縁を感じて…」
電話を切った後、涼介はカレンダーを見つめた。ここ二週間で、これで四件目のキャンセルだ。工夫を重ねた提案も、写真付きの資料も、なぜか届かない。
「なぜだ…」
涼介は自分のデスクで頭を抱えた。せっかく見つけた新しいアプローチが、また行き詰まりを見せている。最初の成功は偶然だったのだろうか。写真で伝える「街の物語」は、本当に価値があるのだろうか。自問自答を繰り返す日々が続いていた。
「桐山、ちょっといいか」
その日の午後遅く、村上さんが涼介のデスクに近づいてきた。表情から重要な話があることが伺えた。
「はい、どうぞ」
村上さんは厚めのファイルを置いた。「これ、桐山が最近案内した物件のリストだ。気づくことはないか?」
涼介は資料に目を通した。そこには過去一ヶ月に自分が担当した物件と、その成約状況が記載されていた。一目で分かったのは、初めの頃と比べて成約率が下がっていること。そして、最近担当している物件の特徴—確かに最近は、駅から遠い物件や、築年数の古い物件が多かった。日当たりが良くない、周辺環境に難があるなど、条件的に厳しいものを担当していたのだ。
「これは…」
「俺がリクエストしたんだ。お前なら、これらの物件の良さを伝えられると思ってな」
村上さんの言葉に、涼介は複雑な気持ちになった。信頼されているのは嬉しいが、結果が出せていない現実が重かった。そして、自分がより困難な案件を任されていたと知り、少し安堵しながらも、期待に応えられなかった後悔が胸を締め付けた。
「申し訳ありません。期待に応えられなくて…」
村上さんは首を横に振った。
「謝ることはない。俺の読みが甘かったのかもしれない。ただ、この状況をどう考えるか聞きたくてね」
涼介は窓の外の雨を見つめた。連日の雨で、写真を撮るにも良い条件ではなかった。そして、条件の厳しい物件を担当する中で、自分の「写真で物語を伝える」アプローチにも限界を感じ始めていた。
「正直に言います」
涼介は決意を固めたように話し始めた。
「写真で伝えられることには限りがあると感じています。駅から遠い物件を、いくら周辺の魅力的な写真で飾っても、通勤の不便さは変わらない。築古の物件を、いくら温かみのある言葉で紹介しても、設備の古さは事実として残る」
村上さんは静かに頷きながら聞いていた。
「僕の方法は、あくまで条件が一定レベル以上の物件に対して効果を発揮するものだったのかもしれません。お客様の最低条件をクリアした上で、その先の生活をイメージしてもらう—そういうものだったんだと」
「なるほど」
村上さんはじっと涼介を見た。
「限界を理解したか」
「はい」
涼介は正直に認めた。
「写真や物語だけでは解決できない問題があることを」
村上さんは意外な反応を見せた。穏やかな笑みを浮かべたのだ。
「それが分かっただけでも、この一ヶ月は無駄じゃなかったな」
「え?」
「桐山、不動産業は魔法じゃない。どんな美しい言葉や写真でも覆せない現実はある。その上で何ができるかが重要なんだ」
村上さんはもう一つ資料を取り出した。
「これは、お前が担当した物件で、成約に至ったものだ。なぜこれらは決まったと思う?」
涼介は資料に目を通した。確かに、困難な条件の中でも、いくつかの物件は成約に至っていた。共通点を探そうとして、涼介は気づいた。
「これらは…お客様のニーズと物件の特性が、特に合致していたケースです」
「そう」
村上さんは肯定した。
「例えば、駅から遠くても在宅勤務が多い人には問題ない。築古でも、レトロな雰囲気を好む人には魅力的だ。写真や物語は、その『合致』をより明確に伝える道具なんだよ」
涼介は新たな視点を得たように感じた。自分のアプローチの限界を知ると同時に、その真の価値も見えてきた。
「つまり、マッチングが大前提で、そこに写真や物語が説得力を与える…」
「そういうことだ」
村上さんは立ち上がった。
「桐山、明日からお前の担当を元に戻す。しかし、学んだことを忘れるな。どんな物件でも魅力的に見せようとするのではなく、その物件が本当に合う人に、最高の形で伝える—それが本当のプロフェッショナルだ」
村上さんが去った後、涼介は長い間、雨の窓を見つめていた。挫折のように感じていたことが、実は成長の一部だったのかもしれない。