桐山-第六話 新たな視点
五月の爽やかな風が窓から入り込む平日の午後、僕はパソコンに向かって物件資料を整理していた。ここ数週間、佐藤さんの成約以降、何かが変わり始めていた。仕事への向き合い方、物件の見方、そして自分自身の立ち位置—それらが少しずつだが確実に変化していた。
「桐山、ちょっといいか」
村上さんの声に顔を上げると、彼がコーヒーカップを両手に持ちながら立っていた。
「どうぞ」僕はスペースを空けるように書類を片付けた。
村上さんはカップの一つを僕の前に置いた。「写真、続けてるんだってな」
僕は少し驚いた表情を浮かべた。佐藤さんの件以降、村上さんとは写真のことについて特に話していなかった。
「はい、昔やっていたものを少し…」
「物件紹介にも使ってるらしいじゃないか。面白い試みだ」村上さんは興味深そうに言った。
実は、僕は最近、物件周辺の写真を撮り、お客さんへの提案資料に添えるようになっていた。単なる物件の室内写真や設備の写真だけでなく、近所のカフェ、公園での風景、朝の通勤路の様子—それらは物件の価値を別の角度から伝えていた。
「吉田さんから聞いたよ。先週の橘通のマンション、お前の資料を見てすぐに決めたそうじゃないか」
吉田は同じチームの先輩で、僕がまとめた資料を使って接客したことがあった。その資料には僕が撮った周辺環境の写真がいくつか添えられていた。
「あれはたまたまだと思います」
僕は控えめに答えた。
「物件自体が良かったのもありますし」
村上さんはゆっくりとコーヒーを飲み、首を横に振った。
「謙遜するな。他のスタッフも、お前の資料の評判を聞いているぞ」
僕は静かに息を吐いた。
「でも、それだけで成約率が上がるとは思えないんですよね。写真を撮ったところで、物件の条件が変わるわけではないですし」
村上さんは笑った。
「桐山、お前が変わったんだよ。写真を撮るようになって、街の見方が変わった。だから、お客さんに伝わる言葉も変わったんだ」
僕は少し考え込むように村上さんを見た。確かに、カメラを持って街を歩くようになってから、僕は建物だけでなく、そこで暮らす人々の姿や、季節の移り変わりにも目を向けるようになっていた。早朝の静かな街並み、夕暮れ時に赤く染まる窓ガラス、休日の公園で遊ぶ子供たち—それらを写真に収めるようになり、その場所での暮らしをより鮮明にイメージできるようになっていた。
「先日、田中さんという方に平和台の物件を案内したんです」
僕は静かに語り始めた。
「その時、朝日が差し込むリビングの写真を見せたら、『ここでコーヒーを飲みながら一日を始められそう』と言ってくれて…」
「それだよ」
村上さんは嬉しそうに頷いた。
「条件だけでは伝わらない価値を伝えている。お前の言葉に説得力が出たんだ」
僕はコーヒーに手を伸ばした。
「でも、みんなそんな風に物件を選ぶわけではないですよね。立地や価格、設備…そういった条件で決める人も多いはずです」
「もちろんだ」
村上さんは認めた。
「でも、最終的な決め手になるのは、そこで自分がどう暮らすかをイメージできるかどうかだ。お前はその部分を上手く引き出している」
会話は一旦途切れ、二人は静かにコーヒーを飲んだ。オフィスの窓からは、高層ビルの間に青空が見えていた。
「実は、社内報に『不動産エージェントの新しいアプローチ』というコーナーを作ろうと思っているんだ」
村上さんが再び口を開いた。
「桐山、お前の取り組みを記事にしないか?」
僕は驚いて目を見開いた。
「え?僕の?それは…」
「写真と不動産営業の融合。悪くないテーマだと思うぞ」
村上さんは前のめりになった。
「物件資料に写真を活用する方法や、お客さんの反応など、他のスタッフにも参考になるはずだ」
「でも僕はまだ…」
「遠慮するな」
村上さんは手を振った。
「新しい視点があれば、それは共有すべきだ。それに、実績も出始めているじゃないか」
僕は少し考えてから頷いた。
「わかりました。挑戦してみます」
「良い決断だ」
村上さんは笑顔で立ち上がった。
「来週までにざっとしたアイデアをまとめてくれ。楽しみにしているよ」
村上さんが去った後、僕はじっと窓の外を見つめた。写真を再開してから約一ヶ月。自分の中で何かが変わり始めているのを感じていた。
カメラを手に取るようになってから、僕は物件そのものだけでなく、そこに宿る「暮らし」を見るようになった。数字や条件で表せない価値—それを伝えようとする姿勢が、お客さんに響いているのかもしれない。
社内報の記事。思いがけない展開だったが、自分の経験が誰かの役に立つなら、それは意味のあることだろう。写真を通して見えてきた新しい視点を、言葉にしてみようと思う。僕の中で芽生えた変化が、これからどこに向かうのか—それを探る旅が、また一歩前に進んだように感じた。