瑞希-第二話 時を刻む選択
「二条さん、このプレゼンはあなたにお任せしたい」
編集長の言葉に、二条瑞希は息を呑んだ。青島観光特集の企画プレゼン。大手旅行会社とのタイアップ企画で、編集部の今年最大のプロジェクトだった。
「でも、私には…」
言葉が続かなかった。五年間、雑誌「VOYAGE」の編集部で、瑞希は黙々と原稿の校正や整理をしてきた。目立たず、波風立てず、ただ与えられた仕事をこなすだけ。自分から発信することなど、考えられなかった。
「二条さんなら大丈夫。あなたの感性が必要なんだ」
そう言われても、私の心は重かった。帰宅して、マンションのソファに倒れ込むように座り込んだ。スマホには編集長からのメールが届いていた。
「企画書、楽しみにしています」。
「どうせ私なんて…」
また口癖が出た。30歳を前に、私の人生は停滞していた。大学時代に抱いていた文章への情熱も、いつしか事務的な校正作業の中で薄れていった。
翌日、準備のために資料を探していると、引き出しの奥から細長い紙の箱が出てきた。中には、4年前に購入したROCHEの腕時計が入っていた。
「こんなところに…」
時計の秒針は止まっていた。電池を入れ替えることもなく、4年も放置していたのだから仕方がない。仕事ができそうな時計・・・私はあの日のことを思い出した。
「MAYRO…まだあるかな」
休日、私は4年前に時計を購入したアンティーク時計店を訪ねた。路地は変わっていなかった。青いオーナメントが目に入る。「MAYRO」の文字は健在だった。
ドアを開けると、チリンと鈴の音が響いた。店内はあの日と変わらず、様々な時計が時を刻んでいた。カウンターには若い男性が立っていた。そして40代ぐらいだろうか?スーツ姿の男性がいた。
「いらっしゃいませ」
店主は穏やかな声で言った。
「あの、4年前にここで時計を買ったんですが…」
私は腕時計を見せた。男性はにっこりと微笑んだ。
「ああ、覚えていますよ。ROCHEでしたね」
不思議な安心感を覚えた。
「あの、時計のことで相談があって…」
店主は店にある小さなテーブルへと瑞希を案内した。
「コーヒー飲めますか?」
香り高いコーヒーを前に、瑞希はリラックスしていた。コーヒーってこんなに折り重なるように味の広がる飲み物だったかな?店主は私の気持ちが落ち着く時間をくれた。ゆっくりとコーヒーを飲みこんでいく。・・・あったかい。
「そう、桐山ですけど、進めそうな感じですよ」
「村上さん、それは良かったですね。偶然にも驚きましたが・・・」
スーツの男性は村上という方らしい。店主と親しげに話している。きっと常連なのだろう。
「彼も自信がついてきたようだ。何がきっかけになるかわからないものですね」
この村上という男性はとても仕事ができそうだ。凛としていて、言葉がしっかりとしていて、そして部下想い・・・。なぜか居心地が良く、気づけば仕事の悩みを打ち明けていた。青島の観光プラン、自分の自信のなさ、全てを。
「あの!すみません・・・・」
私は気づくと話に割り込んでいた。村上さんは驚いたような様子を一瞬見せたが穏やかな目をして見つめ返してくる。「どうしたんですか?」と聞くように。もう、止まれない。
「実は編集の仕事をしていて、青島の観光プランのプレゼンを任されたんです。でも、自信がなくて…」
私は自分でも驚くほど、初めて会った村上さんに心の内を話していた。
村上さんはじっと話を聞いてくれた。真剣なまなざしで私の言葉に耳を傾けている。そして静かに言った。
「二条さん、青島の観光プランを売るんじゃないんですよ」
私は首を傾げた。
「どういう意味ですか?」
「そこへ楽しみに行く人の時間を提案するんです。実は私、不動産の営業もしているんですが、同じなんですよ」
村上さんは手元の時計を見つめながら続けた。
「家を売るんじゃなく、そこで過ごす時間の価値を伝える。旅も同じです。場所そのものより、そこで人がどう時間を過ごすか、どんな記憶を刻むか、それが大切なんです」
その言葉に、私の中で何かが目覚めた。
「時間の…価値…」
そうだ。瑞希は自分の原点を思い出した。大学時代、文章を書く喜び。後輩に伝えた「ふわっとした優しさ」。それは単なる言葉ではなく、読む人の心に寄り添う時間の提案だったのだ。
「私、もう一度挑戦してみます」
村上さんは微笑んだ。
「うちにも不器用だけどまっすぐで一生懸命な部下がいるんですよ」
「重なってみえてついつい口を出してすまなかったね」
「とんでもないです!私が提案している価値なんて考えたこともなかったです。新しい発見をありがとうございます!」
帰り道、不思議な高揚感を感じていた。MAYROでの会話が、心の奥底で眠っていた何かを呼び覚ましたように思えた。