村上-第三話 時を刻む選択
老舗時計店「MAYRO」の静かな店内に、私、村上はいた。目の前の若い店主と商談を終えたところだった。不動産営業として出会う人々の人生に寄り添う仕事に誇りを持ちながらも、この静かな時計店には特別な魅力を感じていた。時計が刻む音が心地よく響く空間で、私は桐山のことを考えていた。
「あいつ、今日のプレゼンどうなったかな」
心の中で桐山を思い浮かべる。不器用だけれど、まっすぐで一生懸命な部下。昨日、緊張した面持ちで準備していた姿が目に浮かぶ。
「頑張れよ」
そんな思いが胸をよぎった時、店のドアが開き、チリンと鈴の音が響いた。
30歳前後の女性が、少し迷うような足取りで入ってきた。スーツ姿から会社帰りのようだ。なぜか見覚えがある気がした。
「いらっしゃいませ」
店主の穏やかな声が店内に広がる。
「あの、5年前にここで時計を買ったんですが…」
女性は腕時計を見せた。店主はにっこりと微笑んだ。
「ああ、覚えていますよ。60年代の手巻き式。特別な時計です」
私は興味を持って二人のやり取りを見ていた。店主が女性をテーブルへと案内し、コーヒーを勧める。彼女はリラックスした表情で、次第に自分の悩みを打ち明け始めた。
「実は編集の仕事をしていて、青島の観光プランのプレゼンを任されたんです。でも、自信がなくて…」
彼女の名は二条瑞希。雑誌「VOYAGE」の編集者だという。彼女の言葉に、私は桐山の姿を重ねていた。自信がないと言いながらも、目の奥に情熱を秘めている。
しばらく黙って彼女の話を聞いていると、不思議と言葉が出てきた。
「二条さん、青島の観光プランを売るんじゃないんですよ」
彼女は首を傾げた。「どういう意味ですか?」
「そこへ楽しみに行く人の時間を提案するんです。実は私、不動産の営業もしているんですが、同じなんですよ」
私は手元の時計を見つめながら続けた。
「家を売るんじゃなく、そこで過ごす時間の価値を伝える。旅も同じです。場所そのものより、そこで人がどう時間を過ごすか、どんな記憶を刻むか、それが大切なんです」
彼女の目が輝きを取り戻していくのが感じられた。
「時間の…価値…」
彼女の表情が変わった。思い出したようにハッとする瞬間。私にはその変化がはっきりと見えた。
「私、もう一度挑戦してみます」
私は思わず微笑んだ。そして、ふと桐山のことが頭をよぎった。
「うちにも不器用だけどまっすぐで一生懸命な部下がいるんですよ」
言葉にしてから、少し余計なことを言ったかと思った。
「重なってみえてついつい口を出してすまなかったね」
「とんでもないです!私が提案している価値なんて考えたこともなかったです。新しい発見をありがとうございます!」
彼女は生き生きとした表情で言った。
帰り際、店の窓から彼女の後ろ姿を見送りながら、私は自分の時計を見た。桐山のプレゼンはもう終わっているはずだ。
「あいつも、きっとやり遂げているだろう」
数日後、再びMAYROを訪れる用事があった。店に入ると、店主が穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「あの日の二条さんですが、また来てくれましたよ」
店主は嬉しそうに言った。二条さんは企画書の下書きを持ってきて、私の意見を聞きたがっていたという。残念ながら私は不在だったが、店主が私の代わりに助言したらしい。
「どんな内容でしたか?」彼女の成長が気になった。
「素晴らしい企画書でしたよ。『時間を旅する』というコンセプトで、場所ではなく、そこで過ごす時間の価値を提案するものでした」
私は満足感に包まれた。彼女は自分の中に眠っていた才能を再発見したのだ。